さかなの内観ライフ

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読書感想 闇の考古学

「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」ミヒャエル・エンデにイェルク・クリッヒバウムがインタビューをする形で進めていく対談本。

エンデの対談は毎回頷きたくなるところが多くて、感想がうずたかく積み重なってしまう。

 

1.AI発展時代に「人間の存在意義」を問う

近年は、人間を構成する物質的な要素が明らかになったり、AIが人間の能力を代替できるようになったりして、「人間の存在意義」「人間の尊厳」が再び問われている。

 

「人間がロボットで代替できてしまうのではないか」という思想は、多くの人の恐怖を呼び起こしてしまっていて、AIについて炎上が起きたり、AIツエー!の人々に対してアンチ運動が起きたりしている(逆もしかり)。

 

私もどちらかというと、思想的土台ができないままに技術が進歩して、「人間はAIよりも劣っている」という、人間を軽んじる思想が広まることが怖かった。

でも、本書を読んで改めて、これは進化の過程の痛みであり、きっとまた次のステップに進んでいくのだろうという信頼が生まれた。

 

AIの発展について、これまでとはまるで次元の違う変化で、大変なことになってしまうのではないかという怖さがあったけれど、本当はそういう大きな変化はこれまでの時代にもたくさん重ねられてきたことなのだった。

「技術進歩が物質的進化であっても、精神的退化に繋がりうる」という発想もあるけれど、変化の過程で痛みが生まれているだけで、まぎれもなく進化そのものではあるのかもしれない。

 

今は新しい哲学、人間の尊厳を再発見して一段上の幸福にたどり着くための過渡期なのだろう。

 

結局個人レベルの問題解決の時と同じで、生じる痛みをなかったことにせずに、ちゃんと直面することそのものが意義なのだ。理屈では解決しない。

人生においても、人間の歴史においても、案外奇跡は起きる。でもそれは、起きてみた後には必然だったりする。視野が広がる前には見えなかったことが、見えるようになってみれば普通のことだったりするのと同じだ。

 

2.価値観が遠い人間が分かり合うためには、言葉の意味まで確認しながら話し合うこと

エンデの思想はシュタイナーの思想に似ているところがある、という話はよくあると思うのだけれど、個人的には心理学のユングノイマンの思想や、社会学のルソーの思想も、根本的な人間への考え方は一緒だと思っている。

シュタイナーが霊と呼び、ノイマンが原型と呼び、ルソーが一般意思と呼んだものは超広義では同じなのではないだろうか……

 

と、私は最近思っているのだけれど、背景や経験が違うと同じ言葉を読んでも見え方が違うことがある。

 

社会契約論とか、有名なだけに、要約記事もよくあるけれど、結局要約は誰かの解釈を通したものでしかないので、原著を読むに越したことはない。

エンデは、自分の物語の解釈はしない、各々が各々で物語を経験して思ったことがすべてでそれでいい、みたいなことを言っていて(物語は読み手がいて初めて完結する)、私は、それは人によってその時に見える(そして見えるべき)物事が違うからだと思っている。

 

で、冒頭で述べた思想たちに共鳴があるか、というので、本書の見え方がかなり変わるのかなと思った。そして、インタビュー者は共鳴がないほうらしかった。

 

人間が集まって思想について話し合うとなると、言葉を尽くして、相手との間に言葉の使い方で相違があればそれをいちいち掘り下げていくしかないので、エンデはそれを理解して、何度も何度も架け橋をかけようとしている。

 

だけど、エンデがインタビューで「言葉を用いるときは、ノーマルな用語法から逸脱するわけにはゆかない」と言っているように、言葉で説明するというのは実は枠の中に何かを収めるということでもある。

 

比喩や色々な表現を駆使して言葉にしても、全く違う伝わり方をしてしまうこともあるのである。エンデとクリッヒバウムの食い違いっぷりは、その表れという気がして面白かった。

 

クリッヒバウム 非論理的なことを説明するために、論理をつかっているのだと、いわばカーテンの陰で、おっしゃっているわけですね。

エンデ いいえ。私たちが通常つかっている論理は、いろいろな論理のうちのひとつにすぎないと主張しているだけなのです。それは、いろいろな数学があるのに似ています。そして、まさにユークリッド幾何学で正しいことが、非ユークリッド幾何学でも正しいという必要はまるでない。二点を直線で結ぶのが最短の結び方であるというのは、ユークリッド幾何学だけの話です。非ユークリッド幾何学ではまったく別のことが可能なわけです。つまり正反対の結果になることもあります。

 

(ここから3ページくらい「つまり論理はないってこと?」「論理はあるが別の論理に飛躍するだけだ」「そしたら二つはコミュニケーションできないんだな」「できるし、そのために言葉があり、言葉によってはじめてその二つの違いを説明できる」「じゃあやってみろや」(意訳)という話が続く)

 

(直接の関係はないが、言語化しにくいものを言語で記述すると記憶が歪む現象は「言語隠蔽効果」という名前もついているらしい)

 

人との間に衝突が起きた時、互いに理解し解決に向かおうとすると、大抵二人の間に言語的相違があることに気が付く。

分かり合えないと感じるなら、分かり合えるまで、今言ったこの言葉はこういう意味だと理解したけど、どういう意味で使ったの?と深堀する必要がある(説明しても理解し合えないこともある。でもそういう姿勢を続けることが大事)。

 

だけどもちろんそういうコミュニケーション方法そのものも、人を選ぶものだと知っているから、全員にできるものでもない。ただ、本当に仲良い相手との間で問題が起きたら、深く向き合ってしかるべきだと自分に何度でも誓っている(幸いなことに大抵相手もそうだ)。

 

闇の考古学: 画家エトガー・エンデを語る

 

 

今日も辺境のブログを読んでいただいてありがとうございました。感謝