さかなの内観ライフ

日々の内観や読んだ本の話

自分の依存心を否定すると、他者の返事を受け取れなくなる

ヘッダーをつけてカテゴリを上に書きたいのだけど、htmlとかを調べるのが面倒でうだうだしている。ぬん。

 

今日は、めちゃめちゃ自立的で、本人もそれを誇っているのに、どうも話すとべたつきを感じるタイプの人について考えていた(というか、たぶん昔の私はこんな感じだったのではないかと思う)。

 

なんでも自分で出来て、むしろ他の人に介入されるのを嫌がり、人付き合いもあたりさわりない。依存することを誰より嫌がっていて、なんなら人と話すときはべたつかないようにしている(と思う)。

 

話の内容も動作も全く自立的なものなのに、私には時折なにかが混ざっているように感じられてしまうのだ。でもそれは具体的事象としては全く説明がつかない。別に悪いものというわけでもない。ただ、なんだかベクトルが強くて、私の気力がちょっと疲弊する。

 

単に私の分析にすぎないけれど(本を読んだり、私の少ない人間関係の中で観測したりしたことにすぎないけど)、自分の依存心に見て見ぬふりをしていると、その傾向が出てくる気がする。

見て見ぬふりをする理由は様々だけど、例えば過去に束縛されてひどい目にあったり、頼るはずの誰かが自分の心に土足で踏み込んできたりした経験から、誰かに依存するとひどい代償を払わなければならないと思っている。

 

でも、誰かと温かい相互依存を築くには、まったくの自立というわけにはいかない。必ず依存がある。ただ、それが境界線の溶けた依存ではなく、あくまで自己を確立したうえでの依存というだけで。

だから、依存心に見て見ぬふりをしても、決してなかったことにはならなくて、置いてけぼりにされたそれが、オーラレベルで沁み出てしまう。

 

別にそれは悪いことではない。依存は誰かを求める気持ちそのもので、相手と関わりたいから生まれるものだろうから。だからこそ、だれかの依存心が沁み出ていたら、人はそれを優しく扱ってしまうし、無意識にそれに応えて何かを返してあげようとしてしまう。

 

でも自分の依存心をなかったことにしている人は、その返事を受け取れない。そもそも相手に依存する感情を向けることは悪だと思っているから、自分が無意識にそうしていたとしてもなかったことにする。返事を送られてしまえば、自分が依存したことを認めることになるから、相手からの返事もまた、なかったことにする。

会話している側としては、返したものが上手く届かず消えて行くから、なにかコミュニケーションに違和感が生まれて、疲れてしまう。

 

だから理想論を言えば、依存心を押し込めても押し込めきれず暴走するくらいなら、自分で把握してしまった方がいい。否定したってなかったことにはならないのだから。

 

ただそれが難しいということも理解しているつもりだ。認めてしまったら堰を切って洪水になってしまうかもしれないし、そこで誰も受け止めてくれなかったら、その孤独をどうして自分だけで処理できるだろう? それだったら最初からなかったことにした方が安心だというのはわかる。

 

いずれにせよ、私がそういう人と話すときできることは、疲れないようにしつつ、継続的に関係を保つことぐらいだ。あとは、問題はいつでも表裏一体と考えると、私の側に与えることへのコンプレックスがあることも関係しているのかもしれない。